
大学でイギリスの歴史・文化について教えていることもあり、よく学生から「オススメのイギリスの映画ありませんか?」と質問されます。
そのようなときにパッと思いつく作品の一つが、『アメイジング・グレイス』(Amazing Grace, 2006; マイケル・アプテッド監督)です。
『アメイジング・グレイス』は実話にもとづいたお話で、18世紀末のイギリスで起こった奴隷貿易廃止運動をテーマにしています。
慈善活動家で政治家の主人公ウィリアム・ウィルバーフォースは、当時イギリスで当たり前のように行われていた奴隷貿易に仲間とともに反対し、1807年に奴隷貿易廃止を達成します。本作は、その顛末を描いた映画です。
俳優の演技と脚本はとても素晴らしいですし、時代考証もかなりしっかりされているので当時のイギリス文化・社会のことを知りたい方にはうってつけです。
また、2020年現在、世界的にBlack Lives Matter運動が展開していることを踏まえると、奴隷貿易を扱った本作は黒人差別の歴史的起源を考える材料にもなります。
もちろん英語の勉強にもなることは言うまでもありません。
いろいろな点で本当にオススメの映画です。
まだの方は是非ご覧になってください。
(日本語版の公式HPは閉じてしまっているので、本作の基礎情報はこちらでご確認ください。)
本記事では、本作の魅力を伝えるために、当時の社会背景や、トリビア的だけど実は重要な小ネタを紹介していきます。もちろん、ネタバレは避けながら。
本作をすでに観た方・まだ観てない方いずれにとっても有益な情報を提供することが本記事の目的です。
✔︎ 本記事の内容:
映画『アメイジング・グレイス』の魅力を、ストーリーの本筋に触れることなく紹介する
✔︎ 本記事のフローチャート:
- ゴスペル・ソング「アメイジング・グレイス」について
- 主人公ウィルバーフォースと首相ピット
- 奴隷貿易(大西洋三角貿易)
1. ゴスペル・ソング「アメイジング・グレイス」について

「アメイジング・グレイス」と聞いて多くの方が思い出すのが、情感豊かに歌われるあのゴスペル(賛美歌)ではないでしょうか。アメリカでは「第二の国歌」と言われるくらい人々に親しまれている歌です。
日本でもかなり知られている曲ですよね。例えば、フジテレビ開局45周年記念ドラマ『白い巨塔』(2003年)では主題歌に選ばれました。本田美奈子さんを思い出される方もいらっしゃるかもしれません。
この曲の原作を作ったのが誰なのか気になる方もいらっしゃるかもしれません。原作者は、本作にも登場する奴隷貿易船の元航海士ジョン・ニュートン(1725-1807)です。
彼は、若かりし頃、奴隷貿易船でアフリカから黒人をジャマイカなどカリブ海地域へ運んでいました。船内での黒人の扱いはとてもひどく、彼が関わった航海で約2万人の黒人が命を落としたと言われています。
しかし、彼はやがて、罪深い奴隷貿易に従事した自身の過去に対し強い悔恨の気持ちを抱くようになります。聖職者になったのも、神の前で自らの行いを悔い改めるためでした。1772年に書かれた「アメイジング・グレイス」には、そうした彼の後悔と改心の気持ちがしっかりと刻まれています。
ニュートンが「アメイジング・グレイス」を書いたときは、私たちがよく知るあのメロディはまだついていませんでした。歌詞も少しだけ今と異なります(この歌は現在4つの章節で歌われることが標準ですが、第4章節はニュートンが書いたものと異なります)。
(英語と日本語の歌詞については、こちらをご参照ください。現在の歌詞と、ニュートンのオリジナルの歌詞両方がみられます。)
メロディと歌詞がどのように現在の形になったのかについては諸説あるのですが、おそらく19世紀前半のアメリカにおいてであると言われています。
2. 主人公ウィルバーフォースと首相ピット

主人公のウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce, 1759-1833)と、その親友ウィリアム・ピット(William Pitt, 1759-1806)が本作の中心人物です。
ウィルバーはヨアン・グリフィズ(Ioan Gruffudd)、ピットはベネディクト・カンバーバッチ(Benedict Cumberbatch)という有名俳優が演じています。
ウィルバーとピットはいくつかの点で非常に似通ったバックグラウンドを持っています。
2人が1759年生まれの同い年であることに気がつかれた方もいらっしゃるかもしれません。
両者とも非常に秀でた学問の才をもっており、10代半ばで名門ケンブリッジ大学に進学しました。特にピットは14歳という若さで同大学に入学しています(ウィルバーは17歳)。ちなみに、ピットは「もっとも若くしてケンブリッジ大に入学した学生」であり、いまだにこの記録は破られていません。2010年に15歳の少年がケンブリッジに入学してイギリスで話題になったのですが、その時の新聞の見出しは「数学の神童アラン・フェルナンデス15歳は、1773年以来もっとも若いケンブリッジの学生となった」です(記事のリンクはこちら)。もちろん1773年にケンブリッジに入ったのがピットです。
その後、両者とも21歳の若さでイギリスの国会議員になりました。そして、ピットは、その3年後、若干24歳でイギリスの首相になります。もちろんこの記録もいまだに破られていません。
ただ、イギリスでは40代という若さで首相になる人が時々でてきます。(最近だと、2010年に43歳で首相になった保守党のデイヴィッド・キャメロンの例があります。それより少し前、1997年に首相になった労働党のトニー・ブレアも当時43歳でした)。これは日本だと考えられないことです。
ピットの例は非常に極端でしょうが、ともかく、イギリスでは若くとも才覚・エネルギー・パッションがあれば首相になることができるという文化が18世紀から続いているようです。
ウィルバーフォースとピットは、フランス革命(1789-)に反対したいわゆる「保守派」ですが、それでも様々な政治改革・社会改革を試みました。
例えば、ウィルバーは、動物愛護運動の中心人物の一人として活躍しました。当時のイギリスでは、人間が動物をどんなにひどく扱おうとも罪にはなりませんでした。しかし19世紀初頭、こうした風潮に反旗をひるがえし、動物に対しても愛情と優しさをもって接しなければならないと主張する人々が活躍するようになります。ウィルバーもこうした人々の中にいました。映画の冒頭で、倒れた馬車馬をムチで叩き起き上がらせようとする男をウィルバーがとがめるシーンがあるのですが、これはのちのウィルバーの動物愛護運動への関わりを示唆しています。
ウィルバーはそうじて、黒人奴隷のみならず動物や貧民など「社会的弱者」に対するケアと保護を重視する人物だったのです。
反対に大きく異なるのは、二人が亡くなる年です。
映画の中でも描かれるように、ウィルバーは非常に病弱だったのですが、死ぬのはピットの方がはるかに早かった。46歳の若さでした。過労が死因の一つです。
反対に病弱のウィルバーは、結果的にかなり長生きをします。亡くなるのは73歳のときでした。イギリス帝国全体で奴隷制が廃止されたのは1833年のこと(前述のとおり奴隷貿易の廃止は1807年)。まさしくウィルバーが亡くなる年です。ウィルバーは、奴隷制廃止法案が議会で通過していくニュースを病床で聞きながら息を引き取ったと言われています。
ウィルバーの没年と奴隷制廃止の年が同じというのも、不思議な歴史的因果を感じさせます。
3. 奴隷貿易(大西洋三角貿易)

最後に、本作の重要なポイントの一つである奴隷貿易が当時どのように行われていたかについてまとめてみます。
奴隷貿易は、イギリスーアフリカー西インド諸島(+北アメリカ)を結ぶ、大西洋を横断する貿易でした。このことから「大西洋三角貿易」とも呼ばれます。
この貿易で、何がどう運ばれたのか。
下の図をご覧ください。

まず、イギリスから工業製品がアフリカ大陸(主に西アフリカ)へ運ばれました。
大西洋貿易で主軸を担ったイギリスの港湾都市はリヴァプールとブリストルです。特にリヴァプールは産業革命で大きく成長したマンチェスタと地理的に近く、マンチェスタで大量に作られた綿製品を海外へ運び出す重要な役割を果たしました。
この工業製品がアフリカへ運ばれ売られます(綿製品はアフリカでいかにも売れそうです)。
そこで得たお金を使って、商人は今度は黒人を奴隷として買い入れました(黒人自身が奴隷の売買を仲介しました)。
今度は黒人を「奴隷船」で、イギリスの植民地である北アメリカ・西インド諸島に運びました。黒人奴隷は衛生環境が悪い狭い船内に押し込められたため、航海中に約10〜30%が死亡したと言われています。
黒人は北アメリカ・西インド諸島に着くとすぐに、プランテーション(大規模農園)で働かせられました。そこで栽培されたものは、タバコ、綿花、砂糖など、どれもイギリスでは気候的につくることができないがイギリス人の生活には欠かせないものでした。綿花はマンチェスタで綿製品を作る原料として必要です。また、砂糖は紅茶に入れるのに必要でした。
「イギリスといえば紅茶」と考える人も多いでしょうが、実は、砂糖も茶葉もイギリスでは栽培できませんでした。砂糖は西インド諸島で、茶葉は中国やインドなどアジア地域で採れました。いずれもイギリス帝国が支配した地域です。ここから、紅茶に砂糖を入れて飲む「イギリス人らしい」習慣は、イギリスの海外植民地なくしては成立しえないものであったことがわかります。
18世紀のイギリス人の多くは奴隷貿易の存在に気がついていなかったと言われています。というのも、工業製品を積んでイギリスを出た船が砂糖や綿花を積んで帰ってくるわけですから、多くの人は、単純に、工業製品を売ったお金で砂糖・綿花を買ったのだと考えてしまったのです。工業製品と砂糖・綿花の間に黒人奴隷の売買があることは、多くのイギリス人には知り得ないことだったのです。
しかし、ウィルバーフォースはこの事実を知り、広く公衆に明らかにしていきます。そして、奴隷貿易を人道主義的な観点から強く批判し、その撤廃を求め議会内外で運動を起こしていくのです。その様子は本作の中でもしっかりと描かれています。
この奴隷貿易問題は、現在のBlack Lives Matter運動とも深い関わりがあります。
世界的にBLMのスローガンが叫ばれる中、2020年6月に、ブリストルで奴隷貿易で財を成したエドワード・コルストン(1636-1721)の銅像が引き倒され、同都市を流れるエイボン川に投げ捨てられるという事件が起きました。
コルストンは財産の一部をブリストルの社会事業に投じる篤志家でした。後年その功績が高く評価され、死後150年以上経った1895年に銅像が建てられました。
しかし、その財産の多くは奴隷貿易によるものであったため、近年人々はこの銅像に強い批判のまなざしを向けるようになっていました。そうしたなかBLM運動が世界的にひろがり、その影響を受けて、コルストン像は市民に引き倒されるにいたったのです。
(このコルストン事件についてもう少し知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。)
この市民の行為に賛否はあるのですが、少なくともこの事件から、本作で描かれている歴史的事象は完全に過去のものとはなっておらず、むしろ極めて現代的な意味を持っていることがわかります。
まとめ
本作は何の予備知識がなくても十分楽しめる作品に仕上がっていますが、本記事がまとめてきた3点を知っておくとより味わい深いものになります。
- 賛美歌「アメイジング・グレイス」の原作者は、奴隷船の元航海士。
- ウィルバーフォースとピットは、奴隷貿易廃止運動以外の面でも魅力的な人物であった。
- 奴隷貿易問題は18世紀のイギリスのみならず、21世紀の我々の問題でもある。
本作をまだ観てない方は是非一度ご覧になってください。
もうすでに観たという方も、本記事の内容を踏まえ観直すと新しい発見があるかもしれません。
ブログ主のプロフィール:
大学で英語とイギリス文化を教えています。イギリスに5年間留学して博士になりました。本ブログでは、主に英語学習とイギリスの歴史や文化について記事を書いています。
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